古志郡(こしぐん)は、新潟県(越後国)にあった郡。
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、以下の区域にあたる。
- 長岡市の一部(思川新田、押切新田、池之島、坪根、大口、品之木、脇川新田町、長呂以北・浦・川口各町を除く信濃川以東および西野・岩野・釜ヶ島・川口木沢)
- 小千谷市の一部(浦柄・横渡・南荷頃・小栗山)
- 見附市の一部(葛巻南町・傍所町飛地を除く概ね刈谷田川以南)
近代以前の沿革
古志郡という名称は古く大宝律令の時代からのものであり、『大日本地名辞書』の記述によると古志郡は越国の7つの郡のなかで中核的な役割を果たしていた。当初は越中国に属し、信濃川右岸一帯の地域を指しており、刈羽郡、三島郡の地域も含んだ広大な郡であった。大宝2年(702年)に越後国に割譲された。平安時代に三島郡(みしまぐん、現:刈羽郡)を分離した。また江戸時代には三島郡(さんとうぐん)を分離した。
式内社
『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社。
古志郡6座(並小)
宇奈具志神社(うなぐしじんじゃ)については、延喜式神明帳越後国の古志郡に記されているが、小丹生神社(をにふじんじゃ)とするか説が別れている。小丹生神社も論社であるとする説もある。
近代以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。●は寺社領、○は寺社除地が存在。(1町293村)
- 慶応4年
- 閏4月29日(1868年6月19日) - 戊辰戦争で新政府軍が桑名藩の陣屋がある刈羽郡柏崎を制圧。
- 7月27日(1868年9月13日) - 幕府領・桑名藩領が柏崎県(第1次)の管轄となる。
- 明治元年11月5日(1868年12月18日) - 柏崎県を廃して新潟府に合併することが布達される(実行されず)。
- 明治2年
- 2月22日(1869年4月3日) - 再度柏崎県を廃止する布達が出され、越後府(第2次)に合併。
- 8月25日(1869年9月30日) - 旧:柏崎県の管轄地が柏崎県(第2次)の管轄となる。
- 明治3年
- 10月22日(1870年11月15日) - 長岡藩が廃藩となり、領地が柏崎県の管轄となる。
- 明治初年(293村)
- 古くは蔵王神社の境内地だった信濃川・柿川の中洲に中島村が起立。
- 比礼惣右衛門外新田が比礼村に合併されたとみられる。
- 山崎村が山崎村古新田に改称。
- 明治5年(1872年) - 本尊村・明戸島村が合併して本明村となる。(1町292村)
- 明治6年(1873年)(1町290村)
- 6月10日 - 全域が新潟県の管轄となる。
- 時水村・和田村が合併して明晶村となる。
- 山田新田が向島新田に合併。
- 明治7年(1874年) - 蘭木新田が荷頃村(現:小千谷市)に合併。(1町289村)
- 明治8年(1875年) - 下内新田・花連都新田・迎田村・間内平村・山中村・胡桃沢村・宮野越村が竹沢村に、十兵衛新田・落合村が小栗山村に、槙山助三郎古新田が蓮潟村に、三十八村が蔵王村にそれぞれ合併。(1町278村)
- 明治10年(1877年) - 門松新田が荷頃村(現:長岡市)に、赤花新田が橡堀村にそれぞれ合併。(1町276村)
- 明治12年(1879年)(1町279村)
- 4月9日 - 郡区町村編制法の新潟県での施行により行政区画としての古志郡が発足。郡役所を長岡城下に設置。
- 三島郡大島村・水梨村・青山村・前島村・青島村の所属郡が本郡に変更。
- 古川新田の所属郡が三島郡に変更。
- 赤谷村の一部から寒沢村が分立。
- 新町村(現:長岡市曲新町)・曲方村が合併して曲新町村となる。
- 十二潟村古新田・大潟新田が合併して十二潟村となる。
- 2ヶ所ずつ存在した荷頃村、下条村がそれぞれ南荷頃村(現:小千谷市)、北荷頃村(現:長岡市)、上下条村(現:長岡市下条町)、下下条村(現:長岡市下々条)に改称。
- 新町村(現:見附市下新町)が下新町村に、青木高畑村が高畑村に、青木高畑角右衛門古新田が青木村にそれぞれ改称。
- 明治14年(1881年)(1町276村)
- 小栗山村の一部(旧:落合村を含む)から濁沢村が分立。
- 竹沢村の一部(大久保・小籠・梶金・小松倉・芋川[広神村])から東竹沢村が分立。
- 天下島和助組・栃尾浦村・中子村・金町村・滝下村が栃尾町村に合併。
- 明治17年(1884年) - 今井新田が入塩川村に合併。(1町275村)
- 明治18年(1885年)(1町269村)
- 土合村が三島郡林新田を合併。
- 悪戸川村・水沢村又兵衛組が合併して明戸村となる。
- 池ノ上新田が半蔵金村に、五郎右衛門外新田が水沢村に、赤川助七古新田・赤川庄右衛門古新田が赤川村に、高山外新田が高山村にそれぞれ合併。
- 二ツ郷屋外新田が二ツ郷屋村に、山崎村古新田が山崎村に、福井村古新田が福井村に、山沢新田村が山沢村に、中島古川村が古川村に、鼠島村古新田が鼠島村に、宮関新田が宮関村に、荻野新田が荻野村に、藤沢新田が藤沢村にそれぞれ改称。
- 明治19年(1886年)(1町250村)
- 麻野畑新田・中島市郎次新田が合併して麻野村となる。
- 福田村外新田・天神小屋村・大野新々田および市左衛門新田の一部が合併して天神村となる。
- 天下島若衛門組・柳島新田が宮沢村に、藤右衛門新田が文納村に、八兵衛新田が島田村に、出来都古新田が川崎村に、坂下新田が成願寺村に、河内古新田が左近村に、土合与惣兵衛古新田が草生津村に、左近弥右衛門古新田が左近村に、坂都新田・南潟新田・片端杢右衛門新田が高野村に、長兵衛新田が下下条村に、市左衛門新田の残部が十二潟村に、嘉蔵新田が高見村にそれぞれ合併。
- 小貫村忠左衛門組が山田村に、中沢善兵衛組が善衛村に、中沢戸左衛門新田が戸左衛門村に、中沢長右衛門組が長右衛門村に、赤川久七新田が久七村にそれぞれ改称。
- 明治20年(1887年) - 菅畑村惣左衛門組が菅畑村に、槙山与次兵衛古新田が槙山村に、増田村古新田が川袋村に、赤川村が草生津村にそれぞれ合併。(1町246村)
町村制以降の沿革
- 明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により以下の町村が発足。特記以外は現・長岡市。郡役所の所在地は長岡本町となる。(6町45村)
- 明治30年(1897年)1月1日 - 新潟県で郡制を施行。
- 明治34年(1901年)11月1日 - 下記の町村の統合が行われる。いずれも新設合併。(2町30村)
- 明治39年(1906年)4月1日(1町29村)
- 長岡町が市制施行して長岡市となり、郡より離脱。
- 川西村・四箇村が合併して上川西村が発足。
- 明治44年(1911年)7月1日 - 橡尾町が改称して栃尾町となる。
- 大正10年(1921年)12月1日 - 四郎丸村が長岡市に編入。(1町28村)
- 大正12年(1923年)3月31日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
- 大正15年(1926年)6月30日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
- 昭和23年(1948年)
- 5月3日 - 上組村が町制施行・改称して宮内町となる。(2町27村)
- 7月1日 - 山通村の一部(青木・町田)が宮内町、残部(長倉・鉢伏・大町・高畑・柿)が長岡市に分割編入。(2町26村)
- 昭和25年(1950年)12月1日 - 栖吉村が長岡市に編入。(2町25村)
- 昭和26年(1951年)
- 1月1日 - 富曽亀村が長岡市に編入。(2町24村)
- 10月10日 - 北谷村が南蒲原郡見附町に編入。(2町23村)
- 昭和29年(1954年)
- 2月1日 - 上川西村が長岡市に編入。(2町22村)
- 3月1日 - 宮内町が長岡市に編入。(1町22村)
- 3月31日 - 上北谷村の一部(小貫・土ヶ谷)が栃尾町、残部が南蒲原郡見附町に分割編入。見附町は同日市制施行して見附市となる。(1町21村)
- 6月1日 - 栃尾町が下塩谷村・上塩谷村・東谷村・荷頃村を編入し、市制施行して栃尾市となり、郡より離脱。(17村)
- 11月1日(9村)
- 十日町村・山本村・黒条村・新組村・福戸村・下川西村が長岡市に編入。
- 六日市村の一部(横渡・浦柄)が小千谷市、残部が長岡市に分割編入。
- 東山村の一部(南荷頃・小栗山及び峠を除く塩谷)が小千谷市、残部(木沢及び塩谷のうち峠)が北魚沼郡川口町に分割編入。
- 昭和30年(1955年)
- 3月31日(6村)
- 入東谷村・西谷村が栃尾市に編入。
- 石津村が三島郡来迎寺村・岩塚村・塚山村と合併して三島郡越路町が発足し、郡より離脱。
- 3月31日(6村)
- 昭和31年(1956年)
- 3月31日 - 種苧原村・太田村・竹沢村・東竹沢村が合併して山古志村が発足。(3村)
- 9月1日 - 山古志村の一部(蓬平・濁沢・竹之高地)が長岡市に編入。
- 9月30日 - 中野俣村・半蔵金村が栃尾市に編入。(1村)
- 10月1日 - 山古志村の一部(芋川)が北魚沼郡広神村に編入。
- 平成17年(2005年)4月1日 - 山古志村が長岡市に編入。同日古志郡消滅。
変遷表
行政
- 歴代郡長
脚注
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 15 新潟県、角川書店、1989年9月1日。ISBN 4040011503。
- 谷川彰英『47都道府県・地名由来百科』丸善出版、2015年。ISBN 978-4-621-08761-9。
- 旧高旧領取調帳データベース
関連項目
- 消滅した郡の一覧
- 越国
外部リンク
- 『越佐地図教科書』(国立国会図書館デジタルコレクション)- 1896年(明治29年)1月出版。人口 117,606人、戸数19679との記述あり




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