紀元前430年(きげんぜん430ねん)は、ローマ暦の年である。

当時は、「クラッススが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元324年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前430年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法

  • 干支 : 辛亥
  • 日本
    • 皇紀231年
    • 孝昭天皇46年
  • 中国
    • 周 - 考王11年
    • 秦 - 躁公13年
    • 晋 - 幽公4年
    • 楚 - 簡王2年
    • 斉 - 宣公26年
    • 燕 - 閔公9年
    • 趙 - 襄子46年
    • 魏 - 文侯16年
  • 朝鮮
    • 檀紀1904年
  • ベトナム :
  • 仏滅紀元 : 115年
  • ユダヤ暦 : 3331年 - 3332年

できごと

ギリシア

  • スパルタ軍が再びアッティケーを荒らし回ったが、ペリクレスはこれにひるまず、当初の戦略を変更しなかった。ペリクレスはスパルタ軍との地上戦を避け、再びペロポネソス半島沿岸を海から襲うべく、今回は艦隊の規模を100隻ほどに増強し、海路での遠征を行なった。
  • アテナイに攻城戦を仕掛けられていたポティダイア (Potidaea) が、冬場になって遂に降伏した。
  • アテナイで疫病が発生し、人口密度が高かったこの都市で猛威を振るった(古代の墓から得られた検体による現代のDNA分析から、この疫病はチフスと推定されている)。3万人以上の市民、船員、兵士が死に、ペリクレスの2人の息子も犠牲となった。アテナイの人口の概ね4分の1ほどが、この疫病で死んだ。この疫病の広がりを恐れたスパルタ軍は、兵士たちが病に冒された敵軍と接触することを嫌ったため、アッティケー侵略を放棄して撤退した。
  • ペリクレス自身も罹患したが、一時は回復を見せた。ペリクレスは将軍職を一旦解かれたが、後に再任された。

中国

  • 義渠が秦を攻撃し、渭水の南までやってきた。

芸術

  • ポリュクレイトスが、代表的な彫刻作品のひとつである大作ディアデュメノス (Diadumenos) を完成させた。

誕生

死去

  • エンペドクレス - ギリシアの哲学者(おおよその年代)(紀元前490年ころ生)
  • ペイディアス - ギリシアの彫刻家(おおよその年代)(紀元前490年/紀元前480年ころ生)
  • エレアのゼノン - ギリシアの哲学者(おおよその年代)(紀元前490年ころ生)

脚注

注釈

出典

関連項目

  • 年の一覧
  • 年表
  • 年表一覧

大英博物館・パルテノン神殿の返還運動⇒ワタシ流解釈 ロンパラ!(LONDON パラダイス)

紀元前4000年からの地球の歴史がマップ上で見れるWebサービス 『TimeMap』 PCあれこれ探索

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