内藤 幸三(ないとう こうぞう、1916年3月25日 - 2002年1月31日)は、三重県出身のプロ野球選手(投手)・審判員。日本プロ野球最初の本格派左腕投手である。
来歴・人物
宇治山田市立明倫小学校では沢村栄治と同級生。北海道立小樽商業学校、東京市立商業学校(転校)時代から投手であったが、硬球を握っておらず、卒業後は軟式社会人クラブ「東京リーガル倶楽部」でプレー。1934年・1935年の全国社会人軟式野球大会連覇に貢献した。中でも35年の東京予選では37イニング (全111アウト) を投げて98奪三振、決勝では26奪三振の完全試合を達成している。
その年、日本国中にプロ野球球団設立の機運が高まると、名古屋新聞関係者と共に名古屋金鯱軍設立に奔走。金鯱軍設立後は投手となり、ここで初めて硬球を握った。1936年秋シーズンに投球イニング数を超える139奪三振をマークし、初代の奪三振王となる(当時はタイトルではない)。
兵役で2年間ブランクの後、1939年から本格的にエースとして活躍するが、1941年のシーズン直前にチームが翼軍と合併し、大洋軍となるときに金鯱を離れて朝日軍に移籍し、1944年の休止までプレーした。戦後は朝日軍(この時点でパシフィックと変更していた)の仲間と共に新球団ゴールドスター(1947年から金星スターズ)を立ち上げ、エースとなるが、永田雅一率いる大映に買収されるや「ラッパ(永田のあだ名)」から逃走するかのごとく阪急ブレーブスへ移籍。
1949年オフ、広島カープが設立されると第一次選手として移籍。球団創設の開幕投手や球団勝利第1号投手としてチームの歴史に名を残すが、戦中戦後の混乱と度重なる移籍から体がボロボロになっており、結局、1951年限りで現役を引退した。
引退後の1954年、セントラル・リーグの審判部へ所属し、審判に転向。審判部が東京・関西の二部制となると東京審判部に所属。1966年まで審判を務めた。
2002年1月31日、脳梗塞のため86歳で死去。
投手としての球種はドロップ、スローカーブ。
詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- ゴールドスターは、1947年に金星(金星スターズ)に球団名を変更
タイトル
- 最多奪三振:1回(1936年秋)※当時連盟表彰なし
記録
- 1イニング12失点:1946年7月15日、対グレートリング3回戦(高岡工専グラウンド)、8回裏に記録 ※プロ野球記録
背番号
- 14 (1936年)
- 15 (1940年、1950年 - 1951年)
- 19 (1941年 - 1943年)
- 2 (1946年 - 1947年)
- 17 (1948年)
- 12 (1949年)
- 1944年は背番号廃止
脚注
関連項目
- 三重県出身の人物一覧
- 名古屋金鯱軍の選手一覧
- 松竹ロビンスの選手一覧
- 大映ユニオンズの選手一覧
- オリックス・バファローズの選手一覧
- 広島東洋カープの選手一覧
- プロ野球審判員一覧
外部リンク
- 個人年度別成績 内藤幸三 - NPB.jp 日本野球機構




