1981年フランス大統領選挙は、フランス共和国の国家元首である大統領を選出するために行われた選挙で、1981年4月26日と5月10日に投票が行われた。

概要

大統領の任期7年が満了したことに伴って実施された選挙である。5月10日に行われた決選投票の結果、社会党第1書記のフランソワ・ミッテランがジスカール・デスタンを破って当選した。この結果、1958年にシャルル・ドゴール将軍によって発足した第五共和政の下でジョルジュ・ポンピドゥー、ジスカール・デスタンと3代にわたって続いた保守政権にピリオドが打たれることとなった。

基礎データ

  • 大統領任期:7年
  • 再選制限:無し
  • 選挙方法:2回投票制
  1. 第1回投票において有効投票の過半数を得た候補がいた場合は、その候補が当選。いない場合は上位2候補が2週間後に行われる決選投票に進む。
  2. 決選投票は第1回投票における上位2候補で争われ、最多得票を得た候補が当選。
  • 第1回投票日:1981年4月26日
  • 第2回投票日:1981年5月10日

候補者

大統領選挙に立候補したのは以下の10名である。前回選挙で共産党は社会党と共にミッテラン候補を擁立したが、78年に社共共闘が破綻したことで今回、独自候補を擁立した。

選挙結果

出典:Élection présidentielle 1981(2011年9月18日閲覧)

4月26日に行われた第1回投票では、ジスカールデスタン候補が得票率28.32%で首位に立ち、ミッテラン候補は25.85%で2位、シラク候補が18%、共産党のマルシェ書記長が15.33%と続いた。このためジスカールデスタン候補とミッテラン候補が当初の予想通り決選投票に進出し、5月10日の決選投票においてミッテラン候補がおよそ100万票余りの差をつけて当選を果たした。

ミッテラン候補の勝因としては、ジスカールデスタン大統領のスキャンダル(中央アフリカのボカサ1世から大量のダイヤモンドを送られていた事件、大統領側近が内相時代にドゴール派の有力議員の暗殺計画を事前に察知していたにもかかわらず黙殺した事件)、インフレ対策と失業対策の失敗で国民から強い反発を受けていたことなどが挙げられる。また共産党候補の得票はこれまで20%台を維持してきたが、1979年のソ連軍によるアフガン侵攻に対して支持を表明するなど親ソ路線を強めたことに対する反発が影響し、本選挙では15%台に落ち込んだ。

大統領選挙に勝利したミッテランは5月21日、正式に大統領に就任した。そしてピエール・モーロワを首相に任命し、翌日、モーロワ内閣が発足した。新内閣の発足に続く、5月23日には国民議会が解散され、6月14日と21日にそれぞれ第1回投票と決選投票が行われた(→1981年フランス議会総選挙)。

参考文献

  • France Politique
  • ブリタニカジャパン『ブリタニカ国際年鑑』1982年度版

「1981年フランス大統領選挙」とは ウィキ動画 YouTube

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1981年フランス大統領選挙 Wikipedia